春。
みんなの足どりが速く感じる。
置いてかれてるような気がする。
どこへ向かってるのか。行きたいのか。
わからなくなってる自分がいる。
立ち止まってる自分がいる。

でも、きっと
春はそのうち終わるから。

今、動けない君へ。

ahamoとブランデー戦記から
届けたい歌と言葉があります。

Essay

ブランデー戦記「Fix」を聴いて、思ったこと、感じたこと、思い出したこと。
自分が「動けなかったころ」を振り返るエッセイを書き下ろしていただきました。

祖父自身は地元を動かないまま、
特に何も変わらなかった。

クドウナオヤ

あれは、僕が20代最後の年のこと。
30歳になる前に、何か新しいことを始めなきゃと焦っていた。例えば、ギターを弾けるようになりたいとか。ずっと憧れはあったけど、なんとなく動き出せなかったようなやつ。
30歳を過ぎてからギターを始めるなんて、青春を取り戻そうとしてるおじのテンプレみたいで、なんか小っ恥ずかしい。29歳ならまだ「20代からやってたんだよねー」って言える。そんなくだらない見栄が、焦りの正体だったのかもしれない。

そんなある日、秋田の実家から祖父の“生前相続”が始まるという連絡が届いた。祖父は秋田のド田舎で生まれ育ち、長く教師をやっていた人で、地元から一歩も動かずに暮らしていた。いわば、僕よりもよっぽど“動けない人”。
僕は久しぶりに帰省して、なんとなくのノリで、僕の私服を祖父に着てもらい、家の周りで写真を撮ってみた。

すると、かっこよかった。
笑っちゃうくらい、かっこよかったのだ。

僕のライダースも、セットアップも、オシャレとはほど遠い秋田の85歳に、なぜか着こなされてしまった。畑で青いスーツを着こなす祖父は、まるでアフリカのサプールだった。
その写真をSNSにアップすると、瞬く間に世界中に拡散されて、祖父は一夜にして“ファッションアイコン”と呼ばれるようになってしまった。

世界中のメディアから取材を受けるも、祖父自身は地元を動かないまま、特に何も変わらなかった。ふつうに畑を耕し、家の中でよくメガネをなくし、昼寝していた。
祖父はきっと、動かないながらも、人生を誰より楽しめていた人なのかもしれない。動かないように見えて、孫の変な誘いにノってみたり、着たことない服に袖を通してみたりする。そういう、精神的な軽やかさが、祖父にはずっとあった。派手な挑戦じゃなくても、人生に“ノってみる”余白と好奇心を持っていたんだと思う。

僕は、30歳という区切りに勝手に追い詰められて、何かを始めなきゃと焦っていた。でも祖父は、85歳にして、新しいことへ手を伸ばすのに、年齢も場所も関係ないことを鮮烈に見せつけてくれた。

その2年後、祖父は亡くなった。

猛吹雪の日の葬式には、町内外から、信じられないくらいたくさんの人が集まってきた。一生を愛する地元で終えた祖父の、だれかの中に残る“動けない” ことの強さと優しさを、あらためて知ることができた。

だから別に今、動けなくても大丈夫か、と思えた。
何か始めなきゃって、焦らなくてもいい。
ギターは結局、30を過ぎた今も弾けないけど、まあいいか。
いつか僕の孫が、なにかしてくれるかもしれないし、
してくれないかもしれないし。

少し前の私へ、まだホストで
思いっきり遊んでていいよ!

佐々木チワワ

4月1日を、ただの日常だと思える日は来るのだろうか。キラキラした春の空気と、真新しいスーツや学生服に身を包み、前を向いているように見える周りの人々。ああ、自分だけ大した目標も夢も持たないまま、この日を迎えてしまった。ゆっくりと首が締まるような焦燥感を感じたのを覚えている。

高校生の時に高い志と自意識を育て上げて合格した自己推薦入試。その先に待っていた大学生活は思っていたものとは違って、やりたいことの前の当たり前の多さと興味の無さに辟易していた。そんな心の隙間を埋めてくれたのは新宿・歌舞伎町。私の第二の青春が始まった。大学を休学し、ホストに通い詰める日々。「いつか本にするからいいんだもん!」そう言い訳して、不安な気持ちをシャンパンの泡に溶かして飲み込んでいた。初めてホストクラブに足を踏み入れてから7年が経った今、私はホストクラブを通じた社会学の研究のために大学院生になった。なんて遠回りでへんてこな進路なのだろう。自分には社会を変える力があって、たとえ無かったとしても、一流大学に入学できたらきっと一流企業に入って働くんだろうなと考えていた高校生の頃には想像もできなかった場所にまでたどり着いてしまった。同級生はみんな就職し、結婚し、順調に社会で生きている。

現代は、便利だ。選択肢がたくさんある。動画配信なんかで効率よく稼いでいる子が目に留まる。容姿を磨いて人生を楽そうに生きている子がリールで流れてくる。私の人生これでいいんだろうか。何が正解なんだろうか。失敗するくらいなら普通がいいけど、普通がまずわからない。考えることがたくさんで、歩みが止まる。

今、動けない君へ。大丈夫。その間にできることはたくさんある。具体的に3つだけ教えるね。それがあれば、動きたくなった時に多少のコンパス代わりになるはずだから。

1つ目は、自分の好きを見つけること。そして言葉で伝えられるようになること。自分の好き、つまり尊厳を守れるのは自分だけだから。2つ目、たくさん傷つくこと。歳を取れば取るほど、傷つくことを怖がって余計に動けなくなるから。青い時期に受けた傷は、お守りになってくれます。最後に、記憶に残すこと。社会は動き出すと、本当にあっという間に時間が過ぎ去ってしまうから。動けない今の感情、聞いた曲、読んだ本。心が動いた瞬間を覚えておいて。動けた先の未来で、その思い出が光のように残るから。

少し前の私へ、まだホストで思いっきり遊んでていいよ!私も先週派手に遊んだし笑。その思い出を胸に、少しだけ先に行くね。

やめときなよ。

今泉力哉

やめときなよ。

そんなことわかっている人に向かってわざわざ俺がそう伝えたのは、もちろん嫉妬もあったし、なによりもその人のことが好きだったからだ。なによりも、というか、誰よりも。あの頃、あの瞬間、今、俺よりもその人を好きな人はいないと思っていた。でも自分じゃだめだってわかっていた。その人が、今、好きな相手はその顔もわからない既婚者で、その関係には先がなくて、そんなこと彼女はわかっていたはずで、なぜなら彼女は賢かった。それなのにその人はその人をどうしようもなく好きだったのだと思う。そう思っていた。でも今ならわかる。もしかしたら、どうしようもなく好き、とかそういうことじゃなかったから一緒にいられたのかもしれない。俺が彼女に向けていたような、どうしようもなく好き、みたいな感情はきっと重くて、あの時の彼女には一番不必要な感情で、単にウザかったんだと思う。いや、シンプルに俺が彼女のタイプじゃなかっただけなのかもしれない。彼女も俺も今は結婚している。結婚してから一度だけサシでお茶をしたことがある。向こうも結婚してたかな。その辺りは憶えていない。昼に。別にやましくなんてないけど昼に。で、なんかいろいろ話した。あんまり憶えていない。もう嫉妬に駆られることもなかった。それは果たしていいことなのだろうか。わからない。でもあの時の苦しさをふと思い出せること。苦しくなるくらい好きな人がいたこと。でもどうすることもできなかったこと。やめときなよ、といった関係がどういう過程をもってしてかわからないけど終わりを迎えて、彼女が結婚したこと。結局、俺の存在なんて彼女にとっては、彼女の人生においてはどうでもよかったこと。じゃあ俺はなんで生きてるんだろうと思ったこと。救い出せなかったこと。死にたくなったこと。精一杯の言葉が、嫉妬心を隠しての、一般人代表みたいな顔をしての、ただの倫理観からを装った、やめときなよ、だったこと。今、動けなかったこと。悔しかったこと。でも、あの時の自分が感じたつらさが、好きが、今の自分に繋がっている。あんなに人を好きになれたこと。絶対に、絶対に糧になるから。絶対に糧にするから。生きようと思う。生きててほしいと思う。それだけでいいんです。俺のことなんて一生思い出さなくていいから。俺も忘れるから。いや正直忘れてたよ、今日まで。それでいい。またふと思い出せるから。

家に誰もいなくなるまで、
布団をかぶって寝たふりをしていた。

燃え殻

ある朝、僕は突然電車に乗れなくなったことがある。社会人2年目の春だった。
友人たちは会社や世の中の不平不満を言いつつも、新しい居場所を着々と築いていた。それがまたプレッシャーになった。両親は、「なんで普通にできないの?」とおろおろ泣くばかり。僕は、ごめんなさい、と言うのが精一杯だった。そこから半年間、休職をした。その時期、なんでそんなに眠かったのかわからないくらい眠かった。身体が鉛のように重くて、家に誰もいなくなるまで、布団をかぶって寝たふりをしていた。というか、寝たふりをしている最中に、だいたい本当に眠ってしまっていた。誰もいなくなった居間でテレビをつける。交通事故のニュース。華やかな芸能人同士の恋の噂。デパ地下グルメ情報。通販番組は宝石から家電まで隙間なく紹介している。ザッピングしながら、世の中の動向を眺め、麦茶をガブガブ飲む。小腹が空いてラーメンを作って食べる。シャワーを浴びて、ソファでまたウトウト。気づくと夕方になっていて、慌てて外に出て、コンビニで立ち読みをして帰る。そんな生活が半年間つづいた。
半年後、電車に乗れるような精神状態に戻って、一度は仕事に復帰したが、またすぐにダメになり、3ヶ月くらい使いものにならなかった。両親は呆れ、周りの友人たちとも距離ができ、ひとりふたりといなくなる。その頃、自分の将来が良いものになると思ったことはなかった。「痛くなく、この世界から消えたい」と真剣に考えていた。
母方の祖母がまだ生きていて、近くに住んでいたので、日がな一日一緒にいたことがあった。こたつに入りながら、あろうことか祖母に、「痛くなく、この世界から消えたい」と伝えてしまう。祖母は顔色ひとつ変えずに、こちらをしっかりと見て、「いいか、今日のことをちゃんと覚えてろよ。それで大人になったら、好きな子に今日の話をしてみろ。モテるぞ〜」とニヤッと笑って言った。祖母は、僕がいじめられて帰ってきたときも、同じことを言ったことがある。そんなことを言ってくれる大人は、祖母しかいなかった。ただ、そんな人がひとりいれば、希望を持つことができた。そんな言葉をひとつ知れば、心にポッと灯りが点る。今、動けない君へ。どうか、その気持ちを忘れないでほしい。ちゃんと覚えていてほしい。それでいつか好きな子ができたら、今の気持ちを話してみてほしい。間違いなくきっとモテる(はずだから)。

OKOKOK。この感じ。私が私に
納得する。んんナイスボールです。

鈴木ジェロニモ

このへんかなと思って左手をひらく。しゃがんだ私の左手はキャッチャーミットに覆われていて、外から見るとそこにキャッチャーミットを構えたことになる。向こうにいる先輩が左足をゆっくり上げる。土を小高く盛った地面の上で、先輩は一度完全に片足立ちになる。さっきの左足が静かに、強く、確かに着地する。矢印のように差し出された先輩の黒いグラブが空間を退けるように先輩の胴体に掴み戻される。先輩の右腕が後ろから出てくる。上というより斜めから、地面とほぼ平行の角度。机のものをがむしゃらに一掃するように景色を勢いよく切って。白球。先輩の右手に握られたボールが夕方のグラウンドの中で一応、白い。それがこちらに迫ってくる。点のように小さかった白がみるみるボールのサイズになる。
何かこう、分かる。このままではおそらく捕れない。ボール2個分、くらい下。経験から予想して予めそう決まっていたように左手の位置を調整する。もうボールはそこまで来ている。というか、感覚としては「来終わっている」。一定の位置を越えて近づいてきたボールの動きに対してこちらができることはもうない。自分の肉体含めあらゆる事象を、お任せします、と思う。好きにしてください。もう知りません。はーい。
捕る。捕っている。キャッチャーミットの厚い革に白球が到着。音が鳴る。同時。まるで銃声。なんか声も出る。OKOKOK。この感じ。私が私に納得する。んんナイスボールです。言いながら先輩に投げ返す。「おおー」。先輩が私の返したボールを捕って、意外そうににやける。「お前キャッチング上手いな、キャッチャーやれよ」。
高校の野球についていけなかった。動きがまるで違う。硬いボールが地面を這う。硬さは速さだ。小学校のときは体が大きくて、それだけでやっていけた。中学から周りとそんなに体格差がなくなって、けれど騙し騙しやってきた。高校野球は違った。硬式ボールの石のような硬さは、はいもうこれです、これしかないのです、と、野球というスポーツへの本質的な関わりを私に求めてきた。それは崖だった。進めないし戻れない。高校野球という崖で私はどこにも動けなかった。
「お前中学でキャッチャーやってたんでしょ? やることないなら受けてよ」。全体練習が終わって先輩が声をかけてきた。返事だけは一生懸命して、けれどどうせ笑われるんだろうと諦めてブルペンに向かった。
今。先輩のストレートを受けた左手がじんじん熱い。その感情はなつかしくてあたらしい。もう一度、キャッチャーミットを構える。ここ。ここかもしれない。ここです。ホームベースの後ろにしゃがんだ体の中で心臓が夜中のように忙しかった。

休日で、すごく晴れている。
くだらない。本当にくだらない。

伊藤紺

その日から涙が止まらなくなった。一日に何度も悪魔が降りてきて、泣け、泣け、と囁く。うう、と絞り出すように唸るたびに、体の中から毒が押し出されてちょっとだけ楽になる。

まだ苦しいのに涙が枯れてくると、悲しいことや逆に楽しいことを想像して泣く。1日3〜4回、毎日泣く。胸がずっと潰れそうに痛くて、家事や仕事も止まっていた。お風呂に入るのも、帰ってきて手を洗うことさえもしんどくて、ずっとベッドにいたかった。枕や毛布に頬をくっつけると、その柔らかさに胸の水が沸騰して、また大きな涙がぼろぼろとこぼれた。

ついにごはんが食べられなくなった。なにか食べなくちゃと思って、冷蔵庫にあったきゅうりをかじった。おいしくはない。でもきゅうりぐらいしか食べられない。「ダイエットになるかなあ」ってぼろぼろの頭で遠く思った。何日も食べられていないのにふしぎなほど体重は落ちなかった。

ある日、急にめまいがして立てなくなった。一緒にいた友人が心配して水と栄養補助バーを買ってきてくれた。新宿。春のぬるい空気の中で、通行人にちらちら見られながら百貨店の入り口にしゃがんでそれを齧った。のどがせまくて、口が乾いていて、硬くて痛かった。休日で、すごく晴れている。くだらない。本当にくだらない。何も食べられなくなって消えたい。そのほうがマシだと心から思って、また泣きたくなった。

***

あの時期をどうやって抜けたのか、自分でもはっきりとはわからない。何度も立ち直った! と思っては、ちょっとしたことで体勢を崩して転がり落ちた。恋をしたり、大好きな友達ができたり、引っ越したり、生活を立て直したり、創作に打ち込んだり、そのうち仕事がうまく回り始めたり、いろいろなことがゆっくりと動いて、何年もかけて回復というか、無理をしすぎないで生きていける自分のやり方をひらいていったのだと思う。

過去はなくならない。人生の一番暗く深いところで、無意識の中で、今もずっとあの時の自分が泣いている。わたしがばかみたいに笑っているときも、「いいな」と思った服を試着しているときも、眠りの中で穏やかな夢を見ていても、あの時期が底で泣いているから、人生にずっとその音が鳴っている。鐘の音のように遠く響いている。大きな木を見たり、海を見たり、さまざまなすばらしい瞬間にその音が鳴っていることが、どれだけ美しさを深めているだろうと思う。本当につらかった。だけど、本当に、必要だった。

シートベルトを締める。テイクオフ。
私は間に合った人間なのだ。

高松霞

2020年1月、恋人とマレーシアに行った。「マレーシア、なんもないよ」とみんなに言われた。実際なんもなかった。マレーシアは観光スポットも特になく、人々が淡々と生活している大都市だった。ネットで情報を拾う限り民族間の軋轢はあるのだろうが、外国人観光客の我々が肌で感じることはできなかった。「しいて言うなら」と教えられたイスラム美術館で、植物文様や文字文様を眺めた。

私には中学2年生から高校1年生くらいまでの記憶がほとんどない。覚えているのは祖父母の在宅介護に疲弊する母の背中だ。糞尿の臭いが充満する木造家屋と、未来ある同級生の輪郭。当時の私が手伝えたことといえば、祖母が濡らした床を拭き、祖父の食事をつくり運んだことくらいだ。ほとんど腐った祖父母が2ヵ月違いで亡くなり、入れ替わるように弟の暴力がはじまった。俺の番だと思ったんだろう。

マレーシア2泊目はチャイナタウン近くのゲストハウスを取った。1泊目は気張って三つ星ホテルにこもりきりだったから、市井の人々の匂いを感じて作戦通りだと満足した。現地の通行人に勧められるまま、正体の知れない果物のジュースを飲んだ。20代の頃はいつか自分は海外で生活するのだと信じていた。海外で職を得るとか、学生に戻るとか、将来性のある方法でなく、ただカタコトの英語を使い、ぼんやり過ごしたいと思っていたのだ。

心療内科や精神科には三度行ったことがある。一度目は適応障害、2度目はうつ病と診断された。「でも、薬を飲んでもピンと来なくて」と伝えると「ああ、それはそうです」と医者は言った。「躁うつ病の人にうつ病の薬は効かないんですよ」とにかく試してみましょうと処方された薬はてきめんに効き、双極性障害Ⅱ型が確定した。2019年10月、弟が自殺して3ヶ月目のことだった。

長年ひきこもった彼が「ダメ」だろうことが私にはわかっていたのだ。彼の目の前には三つの道があるように思われた。二つの道は遠くまで続くが、濃霧に覆われている。最後の一つは崖になっていて、その下は闇が深く覗くことができない。もちろん私も母もただ彼の暴力に耐えていたわけないのだ。行政や専門の病院に何度も相談に行った。様々な人が手を差し伸べ、働きかけた。それでも彼は崖を選んだ。

私は地図が読めないが、恋人は読める。「ここに行きたいの」検索履歴を見せると地図アプリを開き、出発の準備をしてくれる。蒸し暑い空気を吸いながら恋人の隣を歩く。「年に一度くらいは海外に来たいな」「次はどこがいい?」「ベトナムとか?」そうして日本に帰る。「弟さんは双極性障害Ⅰ型だった可能性があると思います」どうして気づかなかったんだろう。「遺伝性がある病気です」どうして彼も母も病院を拒んでいたんだろう。「治療を試してみましょう」飛行機に乗り、シートベルトを締める。テイクオフ。私は間に合った人間なのだ。水をもらって薬を飲む。恋人はとっくに寝ている。窓の外には夜が広がっている。薬を飲んで、寝て起きたら日本だ。

去年撮った映画の編集画面は
怖くてずっと開けていない。

わたしのような天気

「明日死んでしまうかもしれない」
これは私が上京するまでずっと強迫的に抱いていた感情で、私は、それをエネルギーに作り続けていた。逆に、その感情がなくなったら私は簡単に滅びてしまうんだろうとも思っていた。

5年前、16歳の私は、今、ここではないどこかへの渇望に満ち溢れていた。
作ることがそのまま、自分をどこか遠くの世界に連れていってくれることを知って、その時はがむしゃらに作っていた。痛々しさすらエネルギーに変えていた。
でもだんだん、高校を卒業して、あの街を無理やり出ることができて、知らない街に住みはじめ、日光の入らないせまい家に居着いて、好きな人たちに囲まれて生活していて、生まれて初めてここが自分の居場所だと確信した時、私はいとも簡単に、作る意味を失いました。私が作ってきたことは、「映画」とか「演技」とか「物語」とか、そんな風にもともとあった言葉で定義付けられ、私が社会に居場所を見出した代わりに、私が作ってきたオリジナルの世界は社会に取り込まれていきました。そしてそれは才能とか技術とか能力みたいなものと結びつけられ、「できること」と「できないこと」が自分のフィジカルだけじゃない理由で分けられたりすることになりました。自分の作ったものが自分のものじゃなくなることにいつか無痛になって、誰かが褒めてくれたオリジナルの世界観とやらも、知らないうちに、少しずつ、だんだん、失っていきました。
何かを描くときに使っていた私だけの言語も少しずつ均され、それは社会の人たちが使う言葉と同じになってしまいました。
「特別じゃないのに生まれてきてしまってごめんなさい」
自分が生み出すものが、知らないうちに誰かを傷つけて、それがもしかしたら人を殺してしまうことを、知りました。

とてもとても小さなきっかけで、私も、あなたも、きっとこの部屋から出られなくなってしまうし、とてもとても小さなきっかけで、生み出す意味も、生きる意味も、簡単に失ってしまう。そのゆるやかな死の感覚は、高校生の時私の心を占めていた強迫的な感情よりずっとノンフィクションで、ずっとずっと恐ろしい。
そういうことを考えながら、今日も惰性で目をつぶる。

***

翌朝、目覚ましが鳴るより前に目が覚めると、すりガラスの窓の向こうに、見たこともないほどにキラキラと輝く色たちを見た。
めちゃくちゃに近接した隣の家の青い壁、白い室外機。
それが滲み、反射して、輝いていた。
そうか、春になったら朝だけ、この家にも日差しが差し込むのか。
その時私は、それがこの家の冬の終わりなのだと知りました。
その気付きはまるで、高校生の時、誰も知らない空き教室に隠された昔の卒業生が残した絵や、おもしろい形の壁の汚れを見つけた時の喜びに近かったのです。そしてそれは、限りなく個人的でオリジナルで、美しいものでした。
私たちは今、止まっている。この家から出られないし、友達のメッセージは何件も無視している。去年撮った映画の編集画面は怖くてずっと開けていない。だけど、完全に止まっているわけじゃない。
この目は光を認識することができるし、息を吸って、吐くことができる。目に見えないけど、確かにこの皮膚の下には血が巡っている。
動いている。動いているのだ。
大丈夫、まだ、もう少しだけ、多分やれる。今だからできることが、多分ある。
そんなことを考えながら、今夜は少し、ずっと寝かせていた映画の編集画面を開いてみようかなと思ったりするのでした。

物理学の絶対原則として、
これまで起きた全ての物理現象は、

小御門優一郎

僕も、毎日は歩き続けられない。
調子がいいかもしれないと思っていた時期でも不意に、ベッドから起き上がることが難しい日がやってくる。
どんな感情をトリガーとして、どのような条件下において、そういう日がやってきてしまうかの法則性は、30年以上生きていても未だに完全には解明されていないから厄介この上ない。
最近も、そういう日があった。
そんな日、僕は「宇宙」について考えるようにしている。
「宇宙のスケールに比べたら、君の悩みなんてちっぽけさ!」という、悩みを矮小化させる方向ではない。
だって宇宙がいかにデカかろうが、僕が悩んでいるのは事実なのだから。
僕が頼るのは、ベッドに横たわることしかできない、ハタから見れば無意味な一日に、意味をもたらしてくれる考え方だ。
文系の僕がかいつまんで得た知識だが、量子物理学(熱力学だったか?)の中には、「物質の状態が変化しても、情報は失われることはない」という大基本原則があるそうだ。
僕の解釈で噛み砕くと、
「宇宙を構成するすべての物質は、誕生してから今まで、いつ、どこで、どのような状態にあったか、その履歴を全て記録(この際は記憶と言った方が近いか?)として蓄えている」
ということ。
物理学の絶対原則として、これまで起きた全ての物理現象は、巻き戻してもちゃんと式として成立しなくてはいけないらしい。
(だからブラックホールに吸い込まれた物質が「なくなった」ということにすると、物理学的には大変困ることらしい。気になる方は、「ブラックホール情報パラドックス」を調べてみて欲しい)
学術的な話はこれくらいにしておいて、僕はこの「宇宙はこれまでのことを全て覚えている。そして、これからも記録し続ける」という考え方、とても優しいと思った。
その考えに従えば、僕がベッドから起き上がることができなかったあの日、
その時点で僕の肉体を構成していた分子、原子たちは、僕が一日ベッドに横たわり続けていたことを覚えている。
ベッド脇の床に落ちたままの靴下を構成していた分子、原子たちも、昨日脱ぎ捨てられたまま拾われもせず、接しているフローリング材にだんだん熱を奪われていった夜のことを覚えている、ということになる。
やがて別の生命や物体の構成員に姿を変えていったとしても、あの、僕が何もできなかった日に関与していた物質たちは、遠い未来ブラックホールに吸い込まれるまでは確実に、「僕があの日動けなかったこと」を覚えてくれている。
なんと優しいことであろうか。
思ったように動けない時は、世界からはじき出されているような感覚に陥る。
しかし、そうではないのだ。
動けなかった一日のことでさえ、世界は覚えてくれている。
無為に過ごした、何もしていないと思っていても、僕らはその瞬間もどうしようもなく世界と混ざり合っている。
ただのレトリックと思われる方もいるかもしれない。
でもいいのだ。僕にはこれが効くのだから。
こんなことを一巡ぐるりと考えると、ベッドから起き上がれるようになっていたりするのだ。
起き上がり方など、人それぞれでいい。
破れたカーテンを直そう。

ラーメンは丸ごと食えない、半玉で
充分。そういや、明日は雨らしい。

ゆとりくん

桜がさんざめく、2019年4月
苛立っている。
中目黒に並ぶ能天気な観光客
考えただけで憂鬱になりそうだ。
纏めて皆、俺の事馬鹿にしてるか?

「こんなに人が辞めるなんてちょっと変だよ。」
悪意もなければ何の意図もないポッと出た一言。
去年、起業した会社、1号社員から。
いや、1号社員?そうか。
同じ時期にもう2人いて、すぐに辞めちゃったんだっけ。

足元を見ればすぐ尽きそうなキャッシュに、
俺が俺自身で仕立て上げた上手くいってそうな雰囲気、
“救ってくれ”と思って入ってきた新入社員と、
自分さえ救えない無我夢中な25歳の自分。

何者かにならなきゃ。
何者かになれば全部うまくいく。
何者かになれる日を一日でも早く。
何者かになる前は辛くて憂鬱でつまらないんだ。

なんで皆、すぐ投げ出しちゃうの?
今は辛くて苦しくて憂鬱だけど、
何者かになれれば全部報われるんだよ?
その日のためにずっと我慢すればいいだけじゃん。

その日の夜、久々に飲みに行った。
俺と副社長と、1号社員のはむちゃん。
オフィスの隣にあるラーメンバー。
インスパイア系で少し濃いめの醤油が胃に染みる。トロトロのチャーシューもたまらない。

本題になんて入れる勇気もなく、
何を話したかも今となっては覚えてない。
恋バナとか、最近ムカついたこととか、色々だろう。
何かが解決した訳でもないけれど、
ただ話して笑ってただけで、なんかどこまでいける気がした。
お前らの顔しっかり見て話すの、いつぶりだっけ?

2025年3月31日
最近、別に理由もなく、自分が好きだから曲を作っている。
会社?俺から見ても世の中から見ても順調だよ。当たり前じゃん、楽しんできたんだから。
PV撮影の帰り、あの時と同じお店。
31歳の自分はラーメンは丸ごと食えない、半玉で充分。
そういや、明日は雨らしい。
まだ俺たちはどこにでもいける気がする。

求められた言葉を発するたびに、
喉の奥がひそやかに軋む。

福田若之

社会に生きていると、否応なしに、ほとんど放りこまれるようにして、あたらしい場に身を置かざるをえなくなるときが来る。言葉を求められれば、やたらと前向きなことを語らなければいけない気がしてしまって、たしかに君はそれができないほどに弱くはない。だけど、なけなしの自信をたしかなものにしてくれるだけの証を、君はまだその場で十分に得られてもいない。求められた言葉を発するたびに、喉の奥がひそやかに軋む。そのことを悟られまいと必死になって、でも、そんなことをがんばるためにこの場に身を置いたわけじゃないことを、きっと君自身がいちばんよくわかっている。
何もかもがぎこちなく感じられて、うまく動けない自分にいらだつ。動けないことそれ自体よりも、むしろ何ひとつ動かせない自分の無力さに傷つく。けれど、大したことじゃない。今、君がすぐには何ひとつ動かせなくても、世のなかは動いていく。だから、君ひとりで動かそうとしなくても、君と世界の関わりは変わっていく。やさしくてひどい。巡って来る機会をしっかりと摑むために、今は、ただすこしずつ慣れていけばいい。気がつくころには、君はきっと今の君とは違っている。

***

引っ越してから何年も、前に住んでいた町をくりかえし夢にみた。Y字路の標識、ブロック塀に走る亀裂、緑道沿いに咲く草花、公園のうさぎの遊具、学校のプールの下の隠れ場所、馴染みの風景があのころのまま夢のなかに現れて、目が覚めると遠い部屋にいる。
あるとき、ふと気にかかって、何年かぶりにその町を歩いた。アパートがコンビニエンスストアに建て替えられていた。Y字路の見通しを悪くしていた生け垣も、そのコンビニエンスストアの駐車場になって消えた。農園だったところが保育園になった。住んでいた家も、もうない。
変わっていくことを頭ではわかっていても、いざ目の当たりにするとやはり違う。さびしい気持ちもしたけれど、それだけの年月を自分も無為に過ごしたわけじゃなかったと、たしかに思えた。むかしの夢をみることも、それから次第に少なくなった。

***

ちっぽけな言葉ひとつに、いったいどんな力があるだろう──こんなふうに問うなら、言葉はあまりにも脆くて弱いものに思える。君の紡ぐ言葉は、ときに君自身の傷そのものだ。癒える傷ばかりではないかもしれない。それでも、傷は、君が自分の言葉を生きて、君自身をいたわることを教えてくれる。そこに君がいる。

焦る!焦る焦る焦る!焦る!
わたしはよく焦る。

金井球

電気をつけるタイミングを完全に見失って21時。けっこう信じられない時間タイムラインを見て落ち込んでいたと気がついて、今日もだめだったとまた落ち込む。いくらでも落ち込めてびっくりする。なにかした気になるための映画配信アプリを開いて、なにがいまの自分に達成感をくれるのかわからなくてすぐ閉じてしまう。無限にループするあるあるショート動画を光らせながら、天井を見つめている。同じセリフが繰り返されるたびどんどん自分をきらいになる。
焦る!焦る焦る焦る!焦る!わたしはよく焦る。みんないいなあ、かがやいて、すごいなあ、わたしはかがやくみんなたちと、たたかうなり手を繋ぐなりしながら、共存していかなきゃいけないのか。はあ、焦る。焦るばかりで何もできない。成さねば。成さねば、ということだけがわかっている。起き上がれない。

そんな日もあるよ、という励ましがきらい。あってたまるかいと思う。動けなくていいよ、なんて、ひっくり返っても自分に言えない。動けなくていいよって思えたことないまま、動けない日がたくさんある。大人なのに。大人なのに。そんな日をどうにも乗りこなせない。まだ無理かあ、いつかはね、と思うしかない。と、わかりつつ思えないから焦る。いろんな焦りがごちゃごちゃっと押し寄せてもうわたしは何に焦っているんだろうか、だれにもどうにもできない、叫び出しそうになる。のに叫び出せないのもわたしである。そんな日もある。わかっている。いつになったらそんな日とそんな自分を許せるんだってきいてんの!

いま動けないあなたのために、いまわたしが伝えられることってなんなのか、いっぱい考えてみたけどいまいちわからない。ことばをかきあつめて、何を書いてみたって嘘になる気がする。
わたしはあなたのそんな日に責任を持てない。誰も持てない。いま動けないあなたに、ひとつだけ、無責任に言葉をかけるなら。
大丈夫と思えるなら思えばいいし思えないなら思わなくていいと思う、てこと。無責任でしょう!どうせどんな形であれ、なんだかんだあなたのなんかしらになると思う!てこと。無責任でしょう。しかもふたつ言いました。焦らなくていいよと言われても焦るし、深く考えないでいようとするほど考えてしまうけど、あなただけの日々だからどう思ったっていいと思うよ。許せないまま泣いて、いいと思うよー。
春って言ってもまださむいから、なるべくあったかくいてください。